大成できなかった棋士の思考回路
(画像:王座戦中継ブログより)
2015年1月30日、棋界の語り部として長く活躍された、「老師」こと河口俊彦八段が逝去されました。
80歳近くになっても精力的に活動をされていたので、その逝去を知ったときは衝撃でした。
将棋世界で連載していた「評伝 木村義雄」が未完のままに終わってしまったのは、無念でならなかったでしょう。
文筆家として名を残し、棋士としては大成しなかった
河口八段は「対局日誌」に代表されるように、文筆家として偉大な功績を遺されました。
しかし、肝心の棋士としての実績は芳しくありませんでした。
河口さんは現役棋士の頃、目立った実績はありませんでした。
しかし勝負の分析、棋士の生き方・才能・性格を見極める眼力に長けていました。それを文筆活動で存分に発揮しました。
中でも『将棋マガジン』『将棋世界』で通算20年以上にわたって連載した『対局日誌』は、河口さんのライフワークとなりました。引用:「田丸昇のと金横歩き」より
最高棋歴が順位戦でC級1組ですから、「目立った実績はありませんでした」と言われるのは仕方ありません。
では、大成できない棋士はどういう思考回路を持っているのか、ご自身の著書から紐解いてみましょう。
河口少年が棋士を目指したきっかけ
河口少年が棋士を目指したきっかけは、ごくごく普通のものです。
私が奨励会に入ったのは昭和26年6月4日だった。
将棋指しとはどんなものか、どういう職業なのかなど何も考えていなかった。
師の小堀八段の教室で指していて目をつけられ、プロになってみたら、と誘われ、好きな将棋をさせるのなら、と入門した。
中学生だったから、将来のことなど考えるはずもなく、もちろん、名人になりたいなんて思いもしなかった。●引用:大山康晴の晩節
15歳で進路を明確に決める人はほとんどいませんから、そこはいたしかたないでしょう。
それに、プロの目にとまったのだから、河口少年の将棋にはキラリと光る何かがあったのでしょう。
ですが、才能ある者がひしめく奨励会では、全く及びませんでした。
当時は入会試験もなく、正会員の棋士の門下なら、誰でも好きなときに入会することができた。
入会当日、兄弟子の津村三段(当時)に連れられて東中野にあった将棋会館に行き、なんだか分からぬまま将棋を指し始めていた。
相手は今でもよく憶えているが剱持五級(現八段)で「この定跡を知っているかどうか試してやる」とか言われながら指し、手もなくヒネられた。
結局、記念すべき初日は4連敗。河口六級の前途ははなはだ芳しくなかった。●引用:大山康晴の晩節
はなはだ芳しくない出だしは、まるで河口青年の後の棋士人生を暗示しているかのよう。
しかし、これでハッキリ自分の実力が足りないと分かったわけで、そうと分かればやるべきことはただ一つ。
「これまで以上の努力をする」しかないのですが、ところがどっこい。
熱心に将棋に向き合わない
河口青年は奨励会時代から、あまり熱心に将棋に向き合っていたわけではないようでした。
それは奨励会員にとって絶好の学びの場であるはずの、記録係を務めたときのエピソードにも表れています。
河口青年が記録係を務めた、升田対大山戦の将棋にて。
その対局が終わり、勝った升田名人が取り巻きの棋士に連れ出されて、負けた大山名人と2人きりになったときのこと。
たしか升田が大山からタイトルを奪った、昭和32,3年のころだった。小石川の旅館で私は升田対大山戦の記録係をしていた。
(略)
残ったのは大山と私だけになった。人一倍プライドが高い大山は、はらわたが煮えくりかえる思いだっただろう。
しかし、表情を変えず、盤面を中盤の終わりころに戻し「ここでは相手ももてあましていたんだがな」と私に向かって言った。
私は「そうでしょうね」と気のない返事をした。
こういうところで河口三段の将来は落ちこぼれと決まった。
すかさず升田の座っていたところに移り、大山と1時間も指して研究すれば、そういった気持ちがあれば、もうすこしましな棋士人生になっていただろう。
私は、酒席の方に行きたくて、研究なんか早くやめればいいのに、と思ったのだからお話にならない。●引用:大山康晴の晩節
羽生善治名人が「努力を継続できることが才能」とおっしゃる理由が、こういうところでよく分かります。
将棋に対して情熱の無い人間が、努力して将棋に取り組むはずがないのです。
30歳直前のプロ入り
河口八段は1936年11月23日生まれで、プロ入りが1966年10月1日。
つまり奨励会に在籍すること15年、30歳になる直前までかかったわけです。
ご本人曰く「将棋指しには、自然に勝てる潮が来るもの」らしく、30歳直前でなんとかプロになります。
将棋界内部で「コレはイカン」と思わせるものがあったのでしょう、奨励会に年齢制限が設けられるきっかけになりました。