藤井猛

藤井猛九段が明かす「藤井システム」創作秘話

2017/02/11

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中編:中飛車が主力戦法だった奨励会時代の藤井猛九段

将棋世界2014年11月号に掲載された「ぼくはこうして強くなった 藤井猛九段の巻」後編は、ほぼまるごと藤井システム創作秘話といっていい内容です。

  • 藤井システムの名の由来
  • 藤井システムの原形の一局
  • 力将棋だった棋風から研究を武器にしたきっかけ

将棋に革命を起こした戦法の裏話がテーマとあって、見所はたくさんあります。

藤井システムは「心の強さの産物」

しかし、ぼくが読んで強く思ったのは、藤井システムは「心の強さの産物」だということです。

藤井システムは、その手順の斬新さや、革新的な戦法として取りあげられることが多いです。

将棋界の第一人者たる羽生善治名人も、以下のように評しています。

例えば森下システムだと矢倉がずっと指されてきたなかで、基本があってシステムが生まれてきたわけですが、藤井システムは角道止めて飛車回って四間飛車にする、あとは全部彼の独創だからそれがすごいところです。

(引用:羽生善治名人が語る藤井システム

しかし、研究は「研究をするという意思」が継続してこそ成果が出ます。

それは、戦法そのものの優秀さを論じるよりも大切なことだと思い、そのことを取り上げようと思います。

屈辱を糧に

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中編にもあった通り、藤井システムの発想の萌芽(居玉ではなく7一玉型)は、奨励会時代から存在していました。

平成7年、藤井九段がB級2組に在籍していていた(当時六段)頃、居飛車側の振り飛車対策として、居飛車穴熊が急増していました。

穴熊対策を模索する中、藤井六段は平成7年11月15日の銀河戦で、深浦康市五段(現九段)を相手に屈辱的な大敗を喫してしまいます。

本人いわく、「考えすぎの迷走」の末に、序盤早々に悪手を指したのですが、やはり相手の戦法は居飛車穴熊。

この大敗をきっかけに、藤井六段は居玉四間飛車(文中での表記)を研究することになります。

居玉のまま振り飛車が居飛車穴熊を攻めた将棋だけは前例がない。

発想は持っていたものの、うまくいくわけがないという常識から出ることができず、研究対象から外していたが、深浦戦の敗戦がエネルギーになった。

屈辱を受けて、それをエネルギーに変えられる人は案外少ないように思います。

マンガの主人公ならともかく、そのまま腑抜けになるか、ふて腐れるか、が相場でしょう。

最初の内は思うような成果が出なかったものの、当時婚約中だった奥様とのデート中に、盲点になっていた妙手が閃き、あの伝説の一局へと臨むことになります。

土壇場での勇気

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伝説の一局、平成7年12月22日のB級2組順位戦、対井上慶太六段(現九段)戦。

実はこの対局の直前、一度はシステム投入を断念しかけた一幕がありました。

その3日前に、同じ井上六段を相手に久保利明五段(当時)が居玉四間飛車を用いて敗れていたことを知るのです。

手順は少し違えど、「四間飛車から穴熊に囲われる前に攻める」という、発想の根幹は同じなのだから、自分の研究が筋違いだったと言われているようなものです。

断念しかけたのも無理はないと思いますが、藤井六段は一度は諦めかけた心をグッとこらえます。

これを見て、一時は居玉四間飛車を断念しようとした。

が、しかし、待てよ、自信をつけた井上さんは、次も強気に穴熊にくるのではないか。

それならこちらも思い切り研究をぶつけよう、そう思い直した。

藤井六段は、他人の結果よりも自分の研究を信じたのです。

その勇気が、藤井システム一号局として名高い、伝説の棋譜を生み出したのです。

報われる保証はどこにもなかった

劇的な勝利を得たことで、藤井六段は一旦居玉四間飛車を封印し、本格的な研究に入ります。

今度の研究は、対井上戦に臨む時よりも、遥かに壮大な壁を打ち破ることが目的でした。

藤井システムが一つの戦法として成立するには、主に二つの壁をクリアしなければならなかった。

一つ目は、どんな手順で穴熊を目指されても、攻めきれること。

二つ目は居玉の欠点を突いて、急戦でこられたときに、紙一重の攻防の末、助かっていること。

しかもこれを後手でもクリアしたかった。

相手が急戦でも持久戦でも、2つの相反する指し方に対して対応できる手順を構築しなければいけなかったのです。

このときのことを、藤井九段はこう表現しています。

研究者でいえば、まだ仮説を立てたにすぎない段階。

それを証明するには、膨大な時間と研究が必要だが、必ず証明できるという保証はどこにもない。

それから2年半の歳月を経て、藤井システムは完成します。

それが原動力となり、1998年に谷川浩司竜王(当時)から竜王を奪取し、升田幸三賞も受賞します。

升田幸三賞を受賞する新手は、既存の定跡の修正であることが多いのです。

つまり、これまでの研究の蓄積があるぶん、まだ課題をクリアしやすいのです。

ですが、藤井システムは、上述の羽生名人の言葉の通り、飛車を振って、その後は全て藤井九段の独創なのです。

報われる保証のない研究を、たった独りで実らせたのです。

棋界の頂点へ

3ヶ月に及んだ連載の最後を、藤井九段は以下のように締めくくっています。

答えの見えない中での2年半の研究、前例のない将棋に苦しみながら独り取り組んだ時間が、大きな力になったことは間違いないと思っている。

2000年度、藤井竜王は第13期竜王戦で羽生善治五冠(当時)の挑戦を退けて、竜王3連覇(当時の新記録)を成し遂げます。

その年度末には初のA級昇級も果たし、藤井九段が名実ともに棋界の頂点に立った瞬間でした。

-藤井猛