羽生善治

「島研」時代から別格だった羽生善治三冠

今や伝説になっている研究会・「島研」。

初代竜王になった島朗九段が主催し、若き日の羽生善治三冠、森内俊之九段、佐藤康光九段が揃って所属していたとなれば、いやがおうにも伝説になるというもの。

後に将棋界の覇を競い合うライバル同士ですが、やはり頭一つ抜きんでた存在なのは羽生善治三冠。

今もそうですが、当時からすでに羽生三冠の実力は別格でした。

伝説の研究会「島研」

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「島研」は元々、島朗五段(当時23歳)、森内俊之奨励会三段(当時16歳)、佐藤康光奨励会二段(当時17歳)の3人で始まりました。

研究会では具体的に何をするかというと、実戦と研究です。

―3人でどんな研究を?実戦だと1人余ってしまうでしょう。

島 負けた人が記録を取るんです。

羽生 えっ、島さんも記録を取っていたんですか?

森内 ぼくたちはまだ奨励会員だったので、記録係の人に読んでもらう秒読みにまだ慣れていなかったんです。そういう配慮もあって。

島 奨励会を抜けるための練習は、彼らにはまったく必要ありませんでした。

(引用:「2002年の「伝説の島研同窓会」(前編)」より)

島研が始まったのは昭和61年夏、その約1年後に羽生善治四段(当時17歳)が加わります。

島 島研のメンバーに入ってもらうように羽生さんに声をかけて頂いたのは佐藤さんと森内さんだったと思います。

佐藤 いや、島さんでしょう。

羽生 ええ、それしかないという気もするんですけど(笑)。でも、正確には覚えていないですね。

島 いずれにしろ、そろそろ研究会のスタイルを変えてみようということで羽生さんにお願いしたんですね。

森内 4人体制になったのは昭和62年頃ですね。

(引用:2002年の「伝説の島研同窓会」(後編)より)

昭和62年といえば1987年ですから、現代の若手棋士はまだ生まれてすらいない人も多い時代ですね。

一例を挙げると、豊島将之八段は1990年生まれ、佐藤天彦名人と糸谷哲郎八段は1988年生まれです。

余談

「2002年の「伝説の島研同窓会」(前編)・(後編)」で引用されている企画『伝説の「島研」同窓会』は、【将棋世界Special.vol3「森内俊之」】に全文が掲載されています。

気になる方はこちらからどうぞ。

島研の過酷な罰金制度

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「島研」では実戦を指す場合、負けた方は罰金を払うというルールがありました。

さらに公式戦で負け越しても罰金があったので、駆け出しの若手棋士には相当きつかったと思います。

佐藤 相当きつい罰金でしたよ。研究会での罰金を払うのと別に、公式戦の罰金がきついんですよ。
たしかその月に負け越すと、段位×敗局数×千円、だから僕が四段の時、1勝4敗で3局負け越すと一万二千円…。

(引用:「島研」の罰金制度より)

そうして罰金を集め、集まったお金はただ積み立てるだけではなく、規定の成績をとった人が総取りできる、というシステムになっていました。

研究会ではどうしても本番ほどの本気を出すのは難しいので、それをモチベーションにするわけです。

ただ、その「規定の成績」とやらは、プロ同士ならあり得ないだろう、という前提で作られたルールでした。

ところが・・・・。

あり得ないことをやってのける、それがスター

この島研でも羽生さんは無類の強さを誇っていた。
そして、当時の規定で積立金の総取りとなる12勝1敗が近づいてきたとき、島さんから規定変更の提案があった。
島さんはプロ同士の戦いで12勝1敗はあり得ないだろうという考えで、その規定を決めたはずだ。
それをクリア寸前まで行く羽生さんはさすがというほかない。

(引用:森内俊之九段著・「覆す力」より)

なんというか、いかにも「後年あれだけ勝つ人」らしいエピソードですね。

島朗五段は後に初代竜王に就き、森内・佐藤康両九段のその後の活躍はご存知の通り。

それだけの棋士を相手にも、ぶっちぎりで勝つ。

七冠王然り、あり得ないことをやってのけるのが、真のスターというもの。

-羽生善治