中原誠 大山康晴・升田幸三

大名人でも全盛期の陰りは必ず訪れる(特に45歳くらいに)

2017/02/15

wp-1480777650673.jpg

将棋世界2016年8月号のメイン企画「棋士に聞く本音対談Special」中原誠十六世名人と渡辺明竜王の、新旧第一人者同士の豪華対談。

この対談の中で、渡辺竜王が「(中原)先生は、おいくつまで強くなっているという実感がおありでしたか」と質問したのに対し、中原誠十六世名人が興味深い経験談を語ってらっしゃいます(引用するのは長いので意訳)。

  • 42~43歳までは存分に指せた
  • 45歳を過ぎると、ちょっと頭の能力が落ちる(頭の中の将棋盤の映像が暗くなってきた)
  • 大山康晴十五世名人も45歳くらいから勝ち方がちょっとおかしくなった

棋界の語り部たる河口俊彦八段も、「大山康晴十五世名人が45歳のときには、すでに徐々に衰えが表れ始めていた」というのです。

衰えを見せ始める45歳

では河口俊彦八段著「大山康晴の晩節」より、大山名人が45歳の年からの成績を順に見ていきましょう。

しかし、今だから分かるのだが、大山もほんの僅かずつではあるが、50歳に近づくにつれて衰えを見せ始めていた。
ちなみに昭和43年、大山45歳のときの年間総合成績は、30勝10敗。
昭和44年、28勝16敗。
昭和45年、29勝15敗。
昭和46年、48歳になると、33勝23敗。
いずれも堂々たる成績で、これでは無敵を思わせたのも当然という気がするが、負け数が徐々に増えている。
もっとも、その分対局数も増えているから(棋士の成績では、対局数がいちばん重視される)一概に成績が落ちたとはいえない。

谷川浩司九段の40代半ば以降の成績を考えれば、衰えを見せ始めたとは思えない成績です。

では、同時期のタイトル獲得歴はどうだったでしょうか。

一方タイトル獲得数から見ると、43年は、四冠から三冠に落ちている。棋聖戦と十段戦で、中原と加藤一二三に敗れた。
44年は、十段戦で加藤一二三を破り、四冠に盛り返す。棋聖戦では予選で内藤に敗れ、挑戦者になれなかった。
45年は、名人位を防衛したあと棋聖戦で挑戦者となり、内藤を破って、また五冠王となった。全盛期の最後の輝きというべきだろう。

なんだ、45年に五冠独占(当時のタイトルは名人、十段、王位、王将、棋聖の5つ)してるなら衰えてないじゃん、といいたくなります。

しかし、ろうそくが消える直前に一瞬激しく燃えるかのごとく、ここからだんだんとタイトル維持が苦しくなっていきます。

全盛期の陰り

全冠制覇の期間は短かった。
45年12月に、中原に十段位を奪われ、翌年1月には同じく中原に棋聖位も奪われて、三冠になってしまった。
ただ、同時期に戦われた王将戦は、やはり中原と戦い、これは4勝3敗と大山が踏ん張った。

「大山衰退の歴史」は、同時に「中原台頭の歴史」でもあります。

中原名人は大山名人の「盤外戦術」を意に介さなかったため、若い頃から大舞台で勝てたのです。

46年、この年だけ詳しく書くと、名人戦で升田を退けて三冠維持。
続いて棋聖戦で挑戦者になり、中原と戦ったが、1勝3敗と敗れた。
続いて王位戦では中原の挑戦を受け、今度は退けた。といっても、3勝1敗から2連敗と追い込まれ、第7局でやっと勝った、という有様だった。
続いて、十段戦はまた大山が挑戦者になり、中原と対戦した。結果は4勝2敗で中原勝ち。
この年最後の王将戦は、弟子の有吉と対戦し、4勝3敗と辛くも勝った。

これだけ見ると、すでに大山時代は終わっていそうですが、当時は名人戦の権威が別格に高いのです。

なので、「名人戦で勝ってこそ中原時代」という世間の認識があり、実際に名人が動いたことで中原時代の到来、となります。

中原時代が幕を開けた1972年

そして46年度が終わり、大山-中原のターニングポイントである昭和47年の名人戦へとつながります。

名人戦直前の両者の対戦成績は、大山名人から見て45戦18勝27敗、タイトル戦は2勝5敗。

この年の名人戦で、大山康晴名人(王位・王将)に中原誠十段(棋聖)が挑戦し、4勝3敗で24歳の中原誠名人が誕生。

さらに大山二冠は、この年度中に残る2つのタイトルも失冠し、49歳のとき無冠に転落。

一方、中原名人は王将も加えて四冠王になります(あとひとつは内藤國雄棋聖)。

-中原誠, 大山康晴・升田幸三