米長邦雄

故・米長邦雄永世棋聖の「50歳最年長名人」への軌跡

2017/07/05

将棋界に偉大な足跡を残した米長邦雄永世棋聖がこの世を去ったのは、2012年12月18日のこと。

もうすぐ命日ということで、米長邦雄永世棋聖のもっともな偉大な実績ともいえる、「50歳最年長名人在位」についてのお話を紹介します。

束の間の最盛期

棋士としての米長を一言で表せば、『不屈の闘志の人』と言えるのではないか。
一時期は十段、棋王、王将、棋聖の四冠に輝いたにもかかわらず、名人には6度挑戦して、いずれも跳ね返された。
しかも挑戦するたびに、スコアは悪くなる有様だった。

しかし初挑戦から17年目の平成5年に挑戦権を得たときは、これまでと違っていた。
若い棋士たちを研究会に呼び、むしろ若者の研究と指し方を教わって、名人に挑んだのである。

(引用:「将棋世界2013年3月号 将棋時評」より)

米長邦雄永世棋聖の名人への道は、それはそれは長く険しいものでした。

名人になれずにいるうちに1983年度、第41期名人戦で、21歳の谷川浩司新名人が誕生しました。

つまり、後輩に抜かれてしまったのです。

このとき芹澤博文は「可哀相だが米長はもう名人にはなれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことはできない」と書いた。
きついことを言う、と棋士仲間で話題になったものである。

(引用:「盤上の人生 盤外の勝負」より)

それと、1984年秋に四冠王になったことはなったのですが、その直後、1984年度末に王将・棋王を相次いで失冠します。四冠王でいたのは、ほんの一瞬でした。

残った十段・棋聖も2年後に失冠して、無冠に転落しています。

無冠の時期も、A級の地位は安泰でしたが、タイトルを獲ることは最盛期に比べて、めっきり少なくなりました。

40代半ばという年齢を考えても、徐々に棋士として下降線を辿っていることが明らかです。

若者に頭を下げて、泥沼流を捨てて

そんな状況のときに、7度目の名人戦挑戦者になったのが、1993(平成5)年。

この名人戦に臨むにあたって、米長は前述の通り、若手棋士に現代風の序盤戦術を教わります。

そのときに教えを請うたのが、後に「師」と仰いだ、若き日の森下卓現九段。

今から25年前、「長野将棋まつり」の帰路の途中で、米長と森下卓がいっしょになった。そのときの森下は、C級2組を抜けだせずにもがいていた。
その森下に「研究会をやって、教えてくれないか」と米長は持ちかけた。
才能ありと見ていたのは確かだろうが、伸び悩んでいるから鍛えてやろう、との気持ちがあったと思う。
それに対し、すかさず森下が答えた。
「私は、私より強いか、私より熱心な人としか研究会はしません」
今になって森下は、大先輩になんて無礼なことを言ったのか、と思い出すたびに冷や汗をかいているとか。
しかし、森下の強くなりたいとの思いは米長に通じた。
「君より強いかどうかはわからないが、熱心さなら君に負けない」と言い、二人の研究会が始まった。

(引用:「升田幸三の孤独」より)

最盛期に在った頃の米長将棋と言えば、「泥沼流」と称された、序盤は少々不利でも、終盤の怪力で逆転する棋風でした。

かつての栄光を自ら捨て、自分の子どもと同年代の若者に頭を下げてまで、現代的な将棋へと自らを生まれ変わらせることを決意したのです。

17年越し、7度目の宿願

その成果は目覚ましかった。たとえば矢倉の「森下システム」を会得するくらいは、基本的な力のある米長にすれば、いともやさしいことであった。
序盤はたちまち理屈にあったものとなり、駒組みが変に歪む、ということもなくなった。
そして、中原を破り名人になった。49歳にして悲願がなったのは奇跡というべきだろう。
同じ年頃に木村も大山も名人位を失ったのだから。

(引用:「升田幸三の孤独」より)

こうして、前人未到の50歳名人在位が成りました。

その年齢だけでなく、上記のように「下降トレンドを跳ね返しての名人奪取」だったのです。

将棋界を歴史で語るとき、名人になるとならぬでは大きく違います。

米長は名人位に6度挑んでことごとく敗れ、7度目に念願がかなったのだが、将棋の神様も、加藤一二三と米長は、1度だけは名人にしてやろう、と思ったのではないか。

(引用:「盤上の人生 盤外の勝負 」より)

これは河口八段が著書の中でよく書く決まり文句。

もちろん、「お情けの名人」のような、卑下する意味ではなく、その稀有な才能と実績を称賛するものです。

-米長邦雄