谷川浩司

谷川浩司九段が奨励会員だった頃の将棋界

(画像:棋聖戦中継ブログより)

谷川少年が棋士の養成機関である「奨励会」に入会したのは、1973年3月、小学校5年生のとき。

五級で入会した谷川少年は、自宅のある神戸から例会が行われる将棋連盟関西本部まで、お母様に連れられて通う日々が始まりました。

・・・とだけ書けば、名の変哲もない文ですが、当時は昭和の真っ只中の時代。

現代とはいろいろと異なる事情が存在します。

徒弟制度の名残

まず、奨励会の入会試験について。

現在の奨励会は、試験は年一度の実施、級位者なら一次試験と二次試験があって対局、筆記、面接で合格しなければいけません。

羽生さんたちの世代が奨励会に入った頃は、受験者が数十人といましたが、私が奨励会に入ったときは関西の受験者は2人だけでした。
それも希望者があれば、随時試験を実施するというものです。

(引用:「常識外の一手」より)

谷川九段と羽生善治名人の年齢の差はおよそ8歳。

いうなれば、谷川九段は「昭和最後の世代」で、羽生名人は「平成最初の世代」なのです。

奨励会員と3局指して、2勝1敗なら同じ級、1勝2敗なら1つ下の級に入れるという具合です。

現在から見ればアバウトなものですが、当時はまだ徒弟制度の延長で、プロ棋士である師匠が推薦すれば、よほどのことが無い限り不合格になることはありませんでした。

(引用:「常識外の一手」より)

奨励会は今も昔も「狭き門」だという印象がありますが、40年前はこういう事情だったんですね。

「遅れてきた羽生世代」である、竜王3連覇の実績を持つ藤井猛九段は一度、名人経験者である丸山忠久九段に至っては、二度入会試験で落ちています。

時代が10年違えば、それだけで大違い。

谷川少年は大事にされていた?

次に、お母様の送迎があったことについて。

今の目で見れば、というまでもなく当たり前としかいいようがないのですが、やはり当時は違ったみたいです。

当時関西将棋会館は大阪の南のはずれにあり、神戸から遠かったから、今日の常識では親が送り迎えするのが当然だが、当時の奨励会員でそんなことをされる子どもはいなかった。

戦前は口減らしのために地方から出されて内弟子になった子どもが多かったが、戦後の復興期にもそれは受け継がれ、昭和40年代もまだその風潮はいくらかは残っていた。

だから谷川少年は大事にされていると思われたのだ。

(引用:【将棋世界Special「谷川浩司」】より)

やはりここにも、徒弟制度の名残がありました。

神戸から大阪の南のはずれまでは、相当遠いですよ。当時は、現代よりも交通の条件も悪いだろうし。

それを、「親の送迎があるのが珍しい」とは、いかにも昭和な発想でついていけない。

まぁ、それはともかく、谷川少年の修行時代は、昭和の雰囲気が未だ残る空気の中でした。

-谷川浩司