谷川浩司九段の「クソ粘り」の一手
第71期A級順位戦最終局(平成25年3月1日)。
これまで31期に及んでA級に在籍し続けていた谷川浩司九段は、陥落の危機にひんしていました。
そのときの様子を、2013年5月号で河口俊彦八段がレポートしています。
この将棋で、河口八段に「感動した」と言わしめた、谷川九段の覚悟の一手が出ました。
降級の危機
(画像:朝日新聞デジタルより)
第71期順位戦は、挑戦権争いの方は7勝1敗の羽生善治三冠(当時)を三浦弘行九段が6勝2敗で追っていました。
とはいっても、「どうせ挑戦者は羽生さんだろうな」という気配が漂っており、ならば注目はなんといっても谷川浩司九段。
ここまでの成績は、2勝6敗で降級の危機。
名人位を含めて連続31期在籍していたA級から陥落するかどうか、が世間の注目の的でした。
最終戦の見所の第一は、谷川がどうなるか、であり、第二は挑戦者は誰か、であろう。
周知のように、米長前会長の後を継いで谷川が新会長となった。
慣れぬ雑用をこなしながらの対局が大変なことは分かっているが、だから落ちた、と言われるのは、本人も不本意だろうし、選んだ棋士だって面白くない。
そして、将棋会館に見えているファンの方々も、同じように思えていらっしゃるようだった。
ならば何も心配することはない。将棋界では、昔から声援の多かった者が勝ってきたからである。
谷川九段にとって、最終局は是が非でも負けられない勝負だったのですが、ところがどっこい。
先手・屋敷伸之九段の居飛車に後手・谷川九段がゴキゲン中飛車で対抗して始まった将棋は、あっと言う間に後手が苦戦に陥ります。
クソ粘りの一手
もう後手に勝ち目のない将棋になっていますが、先手が99手目▲6一飛と桂・歩両取りに打った局面。
河口八段が「感動した」一手が放たれたのはこの次の手で、谷川九段は△5一歩と打ちました。
どのように形を作るか、と思われる局面で谷川は△5一歩と打った。これには感動した。
これまで谷川がこんな感じの手を指したのを見たことがない。
5一歩は、2一の桂を取らせまい、という意味だが、▲6七飛成と手掛かりの歩を取られてしまう。
そうなっては一手違いにもならない。それを承知で、野垂れ死にになるのを覚悟で、5一歩と打ったのである。
負ければ降級を覚悟していたという。それは本心であろう。
万感の思いが、この5一歩には込められているのである。
河口八段が何故、大差の将棋でここまで感動しているのか?
格調高き谷川将棋
その理由は、谷川九段の将棋は元来こういう「クソ粘り」の手を指さない、格調高い将棋だからです。
棋士は形勢が悪くなったとき、その特徴が現れ、タイトルを取るほどの棋士は、それぞれが特有の粘り方を見せてくれる。
谷川にはそれがない。駒を噛んだほどの負けず嫌いなら、負けまいともがいているときもあるはずだが、見ていてそんな気配は読み取れない。
指し手を見ても、はったりめいた手、いたずらに長引かせるようなクソ粘りの手、相手のミスを頼むような手などは、絶対に指さない。
また、相手の気持を読み、嫌がっている手を指すこともないし、時間攻めといった、せこいこともしない。
常にその局面、局面での最善の手を指している。そこに谷川将棋の比類ない格調の高さがある。
(引用:「盤上の人生 盤外の勝負」より)
ところが、A級陥落を前にして、以前は絶対に指さなかった「クソ粘り」の手を指した、谷川将棋の変貌に期待しているのです。
首の皮1枚の残留
しかし、河口八段がいくら感動しても、勝てない将棋がひっくり返ることはなく、幾許もなく敗局。
結局2勝7敗で、普通なら降級している成績です。
しかし順位下位の橋本八段、高橋道雄九段がともに2勝7敗だったので、首の皮1枚のところで残留が決まりました。
谷川が残留して、とりわけ関西の棋士はほっとしているだろう。
ただ、この星では来期を心配する向きもあるだろうが、私は、会長になったのが、将棋にプラスになると確信している。
大山康晴がよい例である。会長になることによって、自分に自信を持つことができるようになるのだ。
現に△5一歩にその一端が表れているではないか。
私は、渡辺明とともに谷川将棋の変貌に期待したいのである。
こういうところに並の棋士との差が表れ、天才に強運は標準装備なのです。
しかし下降トレンドには逆らえず、谷川九段はその翌期も2勝7敗で降級が決定してしまいます。