中原誠

少年時代から「名人になる器」として育てられた中原誠十六世名人

以前、知られざる陣屋事件という記事を書きました。

世に有名な陣屋事件の方ではなく、大山康晴十五世名人の「盤外戦術」が中原誠十六世名人には通用しなかった、という話なのですが、それはなぜなのか。

当時から大山康晴十五世名人は、将棋界の中心的存在。

そのような方に命令されれば大抵の人は従ってしまうし、そのおかげで才能の芽を摘まれたとされる若手棋士は多くいます。

なのになぜ、中原誠十六世名人は若くして「盤外戦術」に屈することがなかったのか。

名拍楽・高柳敏夫名誉九段

(画像:日本将棋連盟より)

それには、大名人になる者として見込まれたがゆえの、師匠の教育方針にありました。

中原誠十六世名人の師匠は高柳敏夫名誉九段という方で、将棋界の名拍楽ともいうべき存在です。

その高柳師匠の教育方針というか、将棋界に対する世界観が、以下の文章に全て表れています。

「凡庸な棋士なんで何人いてもしようがない。一人の名人が必要なのだ」との信条から、名人になる器、と見込んだ弟子は大切にし、好きなようにやらせた。

(引用:大山康晴の晩節より)

もちろんこの「名人になる器」とは、中原誠十六世名人のこと。

かなり極端な教育方針ですが、「名人になる器」の棋士にとってはこれがかなりいい方向に働くのです。

「名人になる者」として育てられた

中原少年の修業時代は、1950年代後半~60年代前半頃のこと(1947年生まれ)。

その当時は、棋士を志す少年は師匠の家で住み込みで修行と雑用に明け暮れるのが当たり前だった時代です。

高柳師匠も並の才能の内弟子には厳しい師匠でしたが、中原少年には特別の待遇でした。

師の高柳も、芸術に興味を持つ環境を作った。一般教養も、名人になるためには必要と考えたのである。

高柳は弟子を多く持ったが、才能を見極めて、それぞれの育て方を変えた。

芹澤と中原は特別で、自由放任、実の子以上に大切にした。他の弟子には、将棋道場の手伝いをさせるなど、きびしい師匠だった。

『引用:盤上の人生 盤外の勝負(P.10)より』

中原少年は、高柳師匠と出会った瞬間から名人になるべく育てられ、事実そうなったのでした。

人は若い頃にどのような教育を受けるかで、人生は変わってしまうものなのです。

天才は努力を知らない

もちろん、中原少年が後に大名人になったのは、将棋の才能に優れ、師匠の教育法がよかっただけではありません。

人一倍努力していたからこそですし、何も言わずとも努力が続く人間だったからこそ、師匠も好きにさせたのだと思います。

このころ(注・24歳で名人になった頃)観戦記者の東公平さんが「一番強い中原が一番勉強している。追うものは何をやっているんだ」と書いたが、勉強量の差は、才能の差なのである。

誰かが言っていたが、「天才は努力を知らない」ものなのだ。

『引用:盤上の人生 盤外の勝負(P.15)より』

中原誠十六世名人が大山康晴十五世名人を相手に言い分を通すことができた理由は、ひとことで言えば「位負けしていなかった」からです。

名人になる者として若い頃から教育され、人一倍努力を重ねて実績を積んでいたからこそ、大山名人の理不尽な仕打ちにも屈しなかったのです。

-中原誠