加藤一二三 大山康晴・升田幸三

大山康晴名人(当時)に徹底的に負かされた加藤一二三八段(当時)

123

(画像:「東京新聞」より引用)

加藤一二三八段は18歳でA級棋士になり、20歳で名人戦挑戦者になりました。

普通はこれだけ若くして一流棋士になろうものなら、1回タイトルを取り損ねたくらいでは失速しないはずです。

ところが加藤八段は21歳で一度A級から落ち、初タイトルも28歳まで待つことになります。

大山名人に徹底的に負かされた

新進気鋭の天才棋士がなぜここまで勢いが萎んでしまったのか?

それは、初の名人戦に挑んだときの負け方にありました。

加藤一二三八段が20歳のときに、大山康晴名人(当時)に挑んだ第19期名人戦は、大山康晴名人が4勝1敗で防衛しました。

スコアだけ見れば、大山名人の方が実力が上だった、というだけの話で終わりそうですが、問題はその将棋の内容です。

名人戦が始まってみると、第一局で加藤は快勝した。文句のつけようのない一方的な勝ちであった。

もしかしたら、との世間の期待が一気に膨らんだ。

大山はどう思ったか。それについてはほとんど語られていない。

当人はあまり深刻に考えなかったような気がする。

もしかしたら、負けはしたが、この青年は世間で言うほどのことはない、と見たかもしれない。

第二局からは、ほとんど問題にせず、子供あつかいにして四連勝した。

●引用:大山康晴の晩節

実力差もさることながら、ひどいのはその負かし方。

これは第五局の最終盤の局面で、形勢を一言で言うと「大山名人の勝勢」です。

%e5%a4%a7%e5%b1%b1%e5%8a%a0%e8%97%a4

しかも、▲1四銀と打てば後手玉に必死がかかり、この△5一飛は形作りの手。

しかし、大山名人は▲1四銀と打たず、▲6二馬と今更ながら飛車をいじめ、加藤八段は以降延々と勝つ見込みのない将棋を指さされ続けるハメになったのです。

ナンバー2を徹底的に叩く大山流

wp-1475162749737.jpg

大山名人がなぜこんな負かし方をしたかといえば、それは自身の「第一人者の地位」をこれからも守るためです。

第一人者の地位を守るためには、ナンバー2の存在を潰しておく必要があります。

升田幸三実力制第四代名人が衰えた後、入れ替わるように現れたのが加藤一二三八段でした。

大山名人は、加藤一二三八段のことを「自分の立場を脅かす才能の持ち主」であると見抜いたわけです。

この頃の棋界は、升田を別格とすれば、加藤と二上がナンバー2の格であり、長く天下人であるためには、ナンバー2を叩いておかなければならない。

だいいち、一回り以上も年下に負けるようでは、この先ずっと負け続けることになるだろう。

この世界は、年下に抜かれたら、抜き返すのは難しいのである。

●引用:大山康晴の晩節

文中の「二上」とは、羽生善治三冠の師匠である二上達也九段のことで、この方も生涯大山名人のカモにされ続けたような棋士でした。

A級に長く在籍し、タイトル戦にも多く出ましたが、ことごとく無敵時代の大山名人に跳ね返され続けました。

本題に戻って、すぐに寄せられるはずの玉をスッパリ斬らず、いたぶるように勝ち味のない指し手を続けさせ、加藤青年の心にコンプレックスを植えつけたのです。

大山対加藤戦に戻って、大山は加藤をコテンパンにやっつけた。

さんざんいたぶって負かしたせいかどうかはさておき、結果から見れば、早々にナンバー2の芽をつんだことになる。

この二人の対戦は、以後三十年あまりもつづくのだが、ほとんど大山が加藤をカモ筋にしていた。

●引用:大山康晴の晩節

大山-加藤戦の生涯対戦成績は、大山名人から見て125戦79勝46敗(日本将棋連盟)。

名人戦で敗れた後の加藤八段は、前述の通り、翌期のA級順位戦で降級の憂き目に遭います。

この「21歳でA級から陥落」も、18歳A級」に劣らぬ空前絶後の大記録で、できるとすれば藤井聡太新四段くらいのものです。

-加藤一二三, 大山康晴・升田幸三