加藤一二三

後輩にも抜かれてしまった加藤一二三八段(当時)

2016/10/10

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(画像:「NEWSポストセブン」より引用)

18歳でA級棋士になり、20歳で名人戦挑戦者になった加藤一二三八段(当時)。

神武以来の天才・加藤一二三九段の、長く険しい名人への道

しかしその番勝負で大山康晴名人(当時)にボコボコに負かされ、コンプレックスを植えつけられてしまいます。

大山康晴名人(当時)に徹底的に負かされた加藤一二三八段(当時)

初挑戦から13年後、2度目の名人戦挑戦者になりますが、すでに時代が変わろうとしていました。

13年越しの名人戦

そうして10年ほど、パッとしない成績でいるうちに、「神武以来の天才」と言われた青年も30歳を超え、将棋界には新しいスターが登場します。

1972年、無敵を誇った大山康晴名人を破り、24歳の中原誠名人が誕生しました。

この名人奪取により中原誠名人は、すでに保持していた十段・棋聖を加えて三冠王(当時はタイトル戦が5つの時代)。

ここに20年に及んだ升田・大山時代は終わり、中原・米長時代が始まります。

するとその期の順位戦で、それまで平凡な成績だった加藤一二三八段が突然勝ち始め、8勝1敗で挑戦権を獲得。

名人戦挑戦者になるのは実に13年振りで、中原名人の初の防衛戦の相手として名乗りを上げます。

しかし・・・。

「神武以来の天才」と騒がれ、18歳でA級、20歳で名人挑戦者になってから、13年ぶりの名人挑戦者である。

加藤も期するものがあったろうが、結果は4連敗で負け。

全く勝負にならなかった。

このシリーズは、加藤の注文で全局矢倉戦、それもすべて同型という戦いだったが、中原は相手の望み通りに指し、そして完勝した。

ここで加藤は終わった、と仲間は見た。

伸び盛りの時期に、大山にさんざん叩かれたのがこたえたのである。

●引用:盤上の人生 盤外の勝負

将棋には「棋は対話なり」という格言があるように、指し手によって「自分はこの戦型を指したい」という意思表示をすることができます。ここでの「注文」とはそういう意味。

つまり、自分が望んだ戦型(要は自分の得意な戦型)になりながら、1局も勝てなかったわけです。

それも自分より年下の相手に歯が立たずの有様で、30代半ばの年齢もあって「終わった」と仲間から見られたわけです。

2度目の名人戦敗退後のドン底時代

復活を期した名人戦で中原名人に全く歯が立たず、さすがにショックを受けたのでしょう。

それから2~3年はそれまでに増して低迷してしまいます。

年齢にして35歳ごろが加藤の最も冴えなかった時期で、もう名人候補などとは誰も言わなくなった。

(昭和)四十八年に名人挑戦者になったが、中原誠に挑んで4連敗し、その内容も加藤の評価を下げた。

この頃が中原の全盛期の始まりで、それにライバルといわれた米長邦雄が台頭しはじめ、二上達也と加藤は過去の人になりつつあった。

●引用:盤上の人生 盤外の勝負

勝てないと自信がなくなり、指し手にも勢いがなくなる。

そうすると余計に勝てないわけで、負けが負けを呼ぶバッドスパイラルにハマってしまいます。

大山名人がなぜ必死になってナンバー2を叩いたかといえば、自分よりも若い棋士に抜かれたらもう抜き返すのは難しいからでした。

自分がいまひとつ勝てないでいるうちに、若手時代の中原誠十六世名人や米長邦雄永世棋聖が頭角を現し始め、まさに「後輩に抜かれた」状況になってしまったわけです。

この当時の加藤一二三八段の、中原誠名人との対戦成績は初対戦から1勝21敗だった、というのは有名な話。

●続編→ドン底からの復活! 中原誠五冠(当時)の全冠制覇を阻止した加藤一二三棋王(当時)

-加藤一二三