大山康晴

63歳で名人戦挑戦者になった大山康晴十五世名人

昨期のA級順位戦は、32年ぶりに11人で行われました。

そして32年前に11人で行われた第44期A級順位戦(1985年度)もまた、負けず劣らずのドラマチックなものでした。

第44期A級順位戦に至るまでの時系列を説明すると、史上最年少21歳の谷川浩司名人(当時)が誕生したのが、1983年の第41期名人戦。

その2年後の第43期(1985年度)で中原誠名人が復位し、その直後に始まったのが第44期A級順位戦(1985年6月~1986年3月)です。

32年前の大混戦リーグ

順位 氏名 年齢 成績 結果
1 谷川浩司棋王 23 5勝5敗 4位
2 森安秀光八段 35 4勝6敗 降級
3 森雞二九段 38 5勝5敗 5位
4 米長邦雄十段 41 6勝4敗 PO
5 勝浦修九段 38 4勝6敗 降級
6 桐山清澄九段 37 5勝5敗 6位
7 加藤一二三九段 45 6勝4敗 PO
8 青野照市八段 32 4勝6敗 降級
9 有吉道夫九段 49 5勝5敗 7位
10 二上達也九段 53 5勝5敗 8位
張出 大山康晴十五世 62 6勝4敗 PO

(*上記の表は、将棋順位戦30年史 1984~1997年編より再構成して引用)

この期の特徴はなんといっても、11名全員の成績が6勝4敗~4勝6敗の2勝差に収まったこと。

前期、休場していた大山康晴十五世名人(張出)が復帰したので、降級者3名のルールになっています。

森安八段・勝浦九段・青野八段の3名が、4勝しながら降級の憂き目にあいました。

特に、順位2位で4勝しながら降級した森安八段は、不運としか言いようがありません。

63歳の名人戦挑戦者

そして挑戦権争いの方も、6勝4敗の、加藤一二三九段、大山康晴十五世名人、米長邦雄十段の3名によるプレーオフへ突入します。

まず、千日手指し直しの末に加藤一二三九段に勝った大山十五世名人は、米長十段に挑みます。

その当時の下馬評は以下の通りで、普通に考えれば米長十段が勝つと思うに決まっています。

大山もよく頑張っているが、挑戦者は米長だろう、というのが大方の予想だった。同率決戦に追いついた流れというものがある。

人生の最盛期にある者と、人生の坂を下りつつある者との、勢いの差というものがある。

さらに、この二人はタイトル戦で何回か対戦したが、米長が圧倒していて、実力差というものははっきりしていた。どこから見ても、大山が勝てる要素はなかった。

(引用:大山康晴の晩節 P.32より)

米長十段は1984年度末に四冠王になり、「人生の最盛期にある者」とは、このあたりのことを言っています。

しかし、プレーオフを勝ち上がり、挑戦者として名乗りを上げたのはなんと、当時63歳の大山康晴十五世名人でした(上記に引用した表にある段位及び年齢は、1985年4月1日当時のもの)。

さらに驚くべきことに...!

(画像:将棋順位戦30年史 1984~1997年編より)

63歳の挑戦者は、もちろん名人戦史上最年長記録です(参照:日本将棋連盟コラムより)。

ですがそれだけでなく、大山康晴十五世名人の場合、さらに驚くべき事情がありました。

大山康晴十五世名人が前期の順位戦を休場していたのは前述のとおりですが、その理由は、「ガンの手術のため」です。

つまり、ガンの手術明けの身でありながら、自分よりも遥かに若いA級棋士を相手にプレーオフを勝ち進み、挑戦権を獲得したのです。

大山康晴、最後の名人戦

大山十五世名人にとってこの第44期名人戦は、実に12年ぶり25回目の登場でした。

しかし結果は残念ながら、中原誠名人(当時)を相手に1勝4敗で敗退します。

この名人戦を、河口八段は以下のように評しています。

この名人戦を総括すれば、大山は良い将棋を指したが、結局勝ち切れなかった。

全盛期の者と盛期をとうに過ぎた者との差が、はっきりとあらわれていた。

(引用:大山康晴の晩節 P.42より)

ガンを克服した63歳の奇跡の挑戦でしたが、全盛期の中原名人には及ばず。

この名人戦が、大山十五世名人にとっての最後の名人戦になりました。

-大山康晴