加藤一二三

22年越しの悲願成る!実力制第六代名人・加藤一二三

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(画像:日刊ゲンダイより引用)

33歳の時に挑戦して以来、9年ぶりに名人戦の舞台に戻ってきた加藤一二三十段(当時)。

40歳にして真の才能を開花させた加藤一二三十段(当時)

そして、年度が明けた1982年4月、第40期名人戦七番勝負。

挑戦者・加藤一二三十段と中原誠名人の、将棋史に残る激戦が始まりました。

下馬評を覆す激戦

当時の下馬評は以下の通り、加藤一二三十段は全く期待されていませんでした。

どこから見ても、中原には楽な相手であった。

「神武以来の天才」も、この頃は並のA級棋士になっており、挑戦者になったのが出来すぎだった。

それに、中原は名人になって初の防衛戦(昭和48年)で、加藤を4連勝と完ぺきに叩いている。

この2人の勝負づけは済んでいたのである。

●引用:(P.23)盤上の人生 盤外の勝負

当時、中原名人は34歳の指し盛りで、なんといっても名人位を9連覇していました。

かたや加藤一二三十段は、30代後半からタイトル保持者の常連となったとはいえ、一度名人戦で完敗しており、しかもすでに42歳。

周囲の棋士が中原ノリに傾いたのは、正直無理もありません。

ところが、その下馬評はあっさり覆ります。

第1局から持将棋で始まり、千日手を2回挟んで第9局を終えて3勝3敗。

中原と加藤の名人戦は、名人戦史に残る激戦となった。

第1局が加藤優勢になりながら持将棋。第2局、中原勝ち。第3局、加藤勝ち、第4局、中原勝ち。第5局、加藤勝ち。第6局、千日手。指し直し局、加藤勝ち。第7局、中原勝ち。第8局、千日手。

成績は3勝3敗だが、持将棋、千日手を加えると、ここまで9局指したことになる。

4月13日に始まったのが、第10戦のときは7月30日になっていた。

当時、私は、全局の記事を書いていたが、凡局が無いのに感心しながらも、第10戦のときは、いささかうんざりしていた。

●引用:(P.110)盤上の人生 盤外の勝負

決着は前代未聞の第10局目にもつれ込み、後にこのシリーズは「十番勝負」と呼ばれました。

22年越しの悲願・加藤一二三名人

タイトル戦は普通、老舗の旅館や高級なホテルで行われるはずですが、この第10局は普通ではない事態ゆえに、手配が間に合わなかったのでしょう。

なんと、対局は将棋会館で行われました。

戦型は、これまで全局矢倉。10戦目も当然矢倉戦になった。天才とは、しつこいのである。

対局は東京の将棋会館で行われたが、2日目の夕方の頃は、全館、将棋ファンで溢れていた。

形勢は中盤を過ぎたあたりから中原優勢となり、夜の9時頃には中原必勝になった。

しかし加藤はしぶとく、中原に疑問手が出て混戦になった。

●引用:(P.110)盤上の人生 盤外の勝負

そして終盤、中原名人が詰まないと読んだ局面で、加藤十段が妙手順の詰みを発見。

ここに、加藤一二三名人が誕生しました。

最初に挑戦してから、実に22年。

長く険しい道を乗り越えて悲願が成り、 そのとき20歳だった青年はすでに42歳になっていました。

中原と米長の戦いもまたドラマを数多く生み、ついに「名人は将棋の神様に選ばれた者でないとなれない」とまで言われるようになった。

そんなわけで、将棋ファンが、中原と米長の戦いに気を奪われていたとき、マークされていなかった加藤が名人になったのだが、これも、加藤にあれほどの才能を与えた将棋の神様が、一度だけでも名人にしてやろうと思ったのだろう。

●引用:(P.113)盤上の人生 盤外の勝負

大山康晴十五世名人に完膚なきまでに負かされても、後輩の中原誠名人に抜かされても、けして諦めることなく戦ってきた成果が、最高の形で結実したのです。

これで名人・十段の二冠王となり、中原名人はこの後の王位戦でも敗れて無冠に転落。

名実ともに、加藤一二三名人が棋界の頂点に立った瞬間でした。

-加藤一二三