村山聖 羽生善治 谷川浩司

羽生善治三冠にとっての「天才」とは、村山聖九段と谷川浩司九段のこと

羽生善治三冠は、まごうことなき「天才」です。

では、その天才から見たら、誰のことを天才だと思っているのでしょうか。

対談やインタビューでは聞いても、絶対言ってくれないと思います。

しかし、そういうことを奥様に対してはガードが緩み、それをTwitterで将棋ファンに向けて教えてくれるのが奥様なのです。

天才というのは、村山くんや谷川先生の事だよ

羽生善治三冠にとっての「天才」とは、村山聖九段と谷川浩司九段のことらしいのです。

では、羽生三冠が両者の才能をどのように評しているのか。

それが分かる資料を集めてまとめてみました。

村山聖九段

かつて「東の羽生・西の村山」と並び称せられた天才・村山聖九段。

彼が亡くなったことを対局中に聞いた羽生三冠は、終局後にすぐ、実家がある広島まで弔問のために向かいました。

将棋世界に寄せた追悼文では「彼は本物の将棋指しだった」と評し、その早すぎる死を悲しみました。

棋士としてこれからという時にさぞ無念だったと推察するが、一つだけ確かなことがある。

彼は本物の将棋指しだったと。

御冥福を心よりお祈り申し上げます。

(引用:羽生善治四冠「彼は本物の将棋指しだった」より)

亡くなってから18年後の2016年秋。

その生涯が「聖の青春」で映画化された際、「この映画で、また村山君と会えて嬉しかった」と奥様に語ったそうです。

谷川浩司

将棋を始めた頃の羽生善治少年が憧れた相手であり、少年が棋士になってからの最大の宿敵。

羽生少年が小学校6年生の時に出場した小学生名人戦の審判を務めていたのが、当時A級八段になったばかりの谷川浩司八段(19歳)という不思議な巡り合わせ。

羽生が将棋を始めた6歳の時、史上2人目の中学生棋士として14歳でデビューしたのが谷川だった。羽生にとっては「あまりに遠い世界にいて、自分もなりたい、という感覚さえなかったです」と語るほどの雲の上の憧れだった。

(略)

偶然の出会いは1982年4月3日、6年生の羽生が小学生名人戦で優勝した時だ。谷川はNHKの解説者として現地を訪れていた。11歳の少年の指し手を見た19歳の天才が「羽生君、強いですよ。ノータイムで指しているのに全部正解ですから」と驚く映像が今も残っている。

(引用:【あの時・羽生善治 初の7冠】(2)小学生名人戦で谷川と運命の出会いより)

谷川将棋の代名詞である「光速流」と称された鋭い寄せは、それまでの「ねじり合い」だった将棋観を覆し、将棋にスピード感覚をもたらしました。

羽生三冠はその谷川将棋を「来ると思ったときにはもう寄せられている」と表現しました。

終盤での切れ味に定評があり、光速の寄せと呼ばれる。

羽生善治をして「来ると思ったときにはもう寄せられている」と語るほど。

(引用:将棋棋士の名言100 勝負師たちの覚悟・戦略・思考 P.85より)

羽生三冠が20代の頃、1990年代前半の将棋界は羽生・谷川の二強時代でした。

1996年に当時25歳の羽生さんは七冠王になるわけですが、その前年、最後の牙城として立ちはだかったのが、谷川浩司王将(当時)でした。

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