奨励会

東西決戦 棋士への道程は今も昔も険しく厳しい

2017/02/12

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(画像:日本将棋連盟より)

現行の将棋界の制度では原則として、奨励会三段リーグを突破しなければ棋士にはなれません。

今では当たり前のように存在する三段リーグという制度ですが、この制度が開始されたのは1987年からで、それほど昔からある制度ではありません。

つまり、羽生善治三冠、谷川浩司会長が棋士になったときは、現行の三段リーグはまだ開始されていませんでした。

しかし、さらに時代を遡ると話は変わり、現行の三段リーグの前身ともいえる制度が存在した時代がありました。

奨励会三段リーグ前史

奨励会三段だけで四段昇段者を決める、いわば現行の三段リーグの前身ともいう制度が昭和(1956)31年から始まった予備クラスです。

後に奨励会A組と名称は変わっていますが、制度の大まかな枠組みは変わっていません。

【三段リーグの歴史】
予備クラス(S31年度~S36年度)
奨励会A組(S37年度~S48年度)

なし(S49年6月~S62年5月)
三段リーグ(S62年度~現在)

そもそも奨励会は棋士の養成機関であるとともに、棋士になれる人数を制限する役割を持ちます。

未来ある若者にとっては酷な話ですが、厳しいようでもそれはやむを得ない事情があります。

将棋棋士の総本山たる日本将棋連盟の経営は、基本的にスポンサーからの契約金で成り立っています。

つまり使える予算が限られているわけで、毎年無限に棋士が増えていくようでは、組織の運営が成立しないからです。

東西決戦

さて、予備クラスに話を戻して、この制度がどういうものだったのか。

実際にその制度から棋士になった田丸昇九段のブログから引用します。

当時の四段昇段制度は、三段リーグを東西に分けて行い、東西の優勝者同士による決戦の勝者が四段に昇段できました。

これが世に言われた「東西決戦」で、年間で2人だけが棋士になれました。

(略)

東西決戦では勝利しか道はなく、勝つと負けるでは天国と地獄ほどの落差が生じます。

なお60年代には、東西決戦の敗者同士による再決戦で四段に昇段できる制度がありました。

しかし将棋連盟の財政上の理由で、69年以降は昇段枠が3人から2人に減りました。

ここに実際の東西決戦を突破した棋士の一覧表がありますが、確かに1969年から昇段者が2人に減っています。

なぜか最後の年だけ3人になっていますが、その理由は以下の通り。

東西対抗三段リーグ制度(奨励会A組)の最後のリーグ卒業者である。

青野が関東優勝を決めた後、過去に2度の関西優勝歴があった淡路仁茂が関西優勝をしたため、東西決戦なしで二人が同時に四段に昇段することとなった。

(引用:青野照市wikipediaより)

棋士になれるのは1年間に2人か3人というわけで、現行制度より厳しい気がします。

しかし、当時と昔とでは奨励会員の人数が昔の方が少ないので、単純な比較はできません。

あの超一流棋士たちも苦戦した

昭和の将棋界で一時代を築いた中原誠十六世名人・米長邦雄永世棋聖は、この東西決戦を突破して棋士になった代表格的存在です。

この2名は棋士になったのが18歳(中原)・19歳(米長)と、超一流棋士としては遅く、その理由は三段で足踏みしたからです。

若き日の大豪でも苦戦するくらいですから、今も昔も、棋士になるのは並大抵の厳しさではないということです。

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