47歳で引退! 木村義雄十四世名人の見事な引き際
2018/10/08
関根金次郎十三世名人が名人位を返上し、将棋の名人が世襲制から実力制に移行したのが1935年。
約2年に及ぶ第1期名人戦の末に、初代実力制名人の座に就いたのが、木村義雄名人。
このとき32歳の指し盛りであり、「常勝将軍」の異名をとるほどの圧倒的な強さで、将棋界の頂点に君臨。
言わば、将棋界黎明期の第一人者というべき存在なのが、木村義雄十四世名人です。
実力制初代名人・木村義雄
(画像:wikipediaより)
終戦後、一度は名人位を失うも、その2年後に復位。
この、復位に成功した第8期名人戦第5局(この期だけ五番勝負だった)が、世にいう「皇居済寧館の決戦」であり、その観戦記が坂口安吾によって書かれた「勝負師」です。
その後は2度の名人防衛戦で、当時新進気鋭の若手棋士だった、升田幸三八段と大山康晴八段を1度ずつ退けています。
2度目の名人失冠、そして潔い引き際
しかし1952年になると、年齢による衰えが隠せなくなります。
まず第1期王将戦で升田八段に敗れ、しかも香落ちに指し込まれてしまいます(陣屋事件の末に、香落ち戦は升田八段の不戦敗ということになる)。
さらには第11期名人戦で、当時29歳の大山九段に敗れ、2度目の名人失冠。
このとき初めて関西棋士が名人位に就いたことで、「名人位の箱根越え」と言われています。
将棋界では「名人位の箱根越え」という言葉が有名だ。
家元制度が発足して以来、東の棋士が保持し続けた名人位の座は、第11期名人戦で大山康晴九段が木村義雄名人を破ったことで西にもたらされた。
(引用:王座戦中継ブログより)
木村名人、このとき47歳。
名人を失ったあと、その約1ヶ月後にそのまま潔く引退されました。
木村義雄は塚田に敗れたあと、A級で2期戦い、塚田に再挑戦して破り、名人に返り咲いた。
そして、大山に敗れて引退した。これ以上はない、見事で潔い引き際だった。
(引用:大山康晴の晩節
P.35より)
このときに残したのが、有名な「よき後継者を得た」の名言です。
その言葉通り、大山康晴名人は以後、戦後の将棋界に第一人者として君臨し、木村名人の後継者に相応しい実績を残しました。
死してなお将棋の大名人
木村十四世名人が亡くなったのは、1986年11月17日。
1905年生まれの方なので、享年81歳ということになります(日本将棋連盟より)。
11月17日は、日本将棋連盟が1975年に「将棋の日」として制定した日(日本将棋連盟より)。
そして81歳は、俗に「盤寿」ともいわれます。
「将棋の日」に「盤寿」で亡くなるという、死してなお将棋の大名人であることを示したような最期でした。