羽生善治

村山聖八段(当時)の急逝を聞いたときの羽生善治四冠(当時)

d2c84a53-s

(画像:日本将棋連盟より引用)

29歳の若さでこの世を去った棋士・村山聖九段が亡くなったのは、1998年8月8日。

しかし故人の遺志により、翌日に親族の間だけで密葬が行われました。

日本将棋連盟にその訃報が伝えられたのは、その2日後の8月10日の昼休み。

村山聖八段が亡くなったのが1998年8月8日。

そして、故人の遺思により親族で密葬。

日本将棋連盟には8月10日に訃報が伝えられた。

(8月9日付で九段を追贈)

8月10日、竜王戦の対局だった羽生善治四冠(当時)は昼休みにこの報せを聞いた。

(引用:1998年8月11日の羽生善治名人より)

1998年8月10日当時、羽生善治四冠は28歳になる直前の27歳。

羽生善治四冠(当時)の心情

dsc_86181

(画像:王座戦中継ブログより引用)

1998年度の春から治療に専念するために1年間休場していた、その矢先の出来事でした。

その前年度、村山八段はA級復帰を決め、NHK杯で準優勝する活躍を見せてから、たった数カ月しか経っていませんでした。

そのNHK杯決勝の相手であり、その日対局中だった羽生善治四冠(当時)の心情が、以下のように伝えられています。

8月10日
村山八段死去の知らせを聞いた。まさかとも、やはりとも複雑な心境だった。
観戦記を二度担当した。私は観戦記自体まだ十数局しか書いていないので、思い入れのある棋士だ。
夕刊に死亡原稿を書き連盟へ。この日は竜王戦準々決勝、羽生-郷田戦があり、いずれにせよ千駄ヶ谷へ行くつもりだった。
(略)
特別対局室に入ると、上座の羽生がどうもという顔をした。
やはり昼休みに聞いたらしく、常にポーカーフェースの彼でも、やはりどこか沈んだ表情だった。
(略)
この日の将棋は両者とも冴えが見られなかった。
羽生優勢の終盤だったが、両者ともに不可解な手を指し最後は羽生が勝った。よほどショックが大きかったのだろう。

(引用:村山聖八段(当時)の急逝が将棋連盟に伝えられた日より)

自分が天才と認めた戦友が、まだ29歳と言う若さで亡くなったのは、羽生さんといえどさすがにショックだったのでしょう。

しかし、ここからが、羽生さんが普通の人間とは違うところ。

妥協なき意志

その対局が終わり、羽生四冠が帰宅したのは日付が変わってからのことでした。

しかし、羽生四冠は休む間もなく、広島にある村山八段の実家まで弔問へと向かったというのです。

昼前に羽生が弔問に訪れたという。昨夜帰宅したのは午前0時過ぎだ。
すでに密葬も終わり、いつ行っても状況は変わらない。そこを朝一番の飛行機で挨拶に行ったのだ。
村山の自宅は東京から急いでも5時間以上かかる。羽生はその翌日にも対局があったが、それでも行った。
すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。
羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出ているだけだ。
羽生の人生には妥協という文字はないのだろう。七冠取れるわけだ。

(引用:村山聖八段(当時)の急逝が将棋連盟に伝えられた日より)

文章を読んだだけで、相当の過密スケジュールであることが分かります。

それでもなお、「いつ行っても状況は変わらない」中で弔問に向かった羽生四冠。

将棋界の第一人者になれる人間とは、妥協なき意志を貫く人間なのです。

-羽生善治