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大名人の二世棋士・木村義徳九段

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(画像:wikipediaより)

将棋界の黎明期に第一人者として活躍し、「常勝将軍」の異名をとった大名人・木村義雄十四世名人。

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実は木村義雄十四世名人のご子息には、かつてA級にも昇った棋士がいます。

政治家の世界とは違い、二世棋士の少ない将棋界における稀有な例の一つです。

将棋の才能は遺伝しない

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(画像:「日本将棋連盟」より)

それが木村義雄十四世名人の三男である木村義徳(よしのり)九段。

大名人の二世棋士ながら、たぶん世間にはほとんど知られていないはずです。

それもそのはず、政治家の二世なら地元の票田を引き継ぐことができますが、将棋界では親が大名人でも二世がその才能を引き継ぐとは限りません。

というか、二世棋士がほとんどいないあたり、将棋の才能は遺伝しないのでしょう。

父親は息子が将棋指しになるとき、「才能はたいしたことはないが、八段くらいにはなるだろう」と言ったくらいだし、息子の方も、負け知らずで強くなってきたから、四段になるのはもちろん、Bクラスくらいまでは簡単に上がれると思っていただろう。
ところがプロの世界は甘くなかった。

*以下の引用はすべて「盤上の人生 盤外の勝負」より

偉大なる父親の目は確かで、義徳九段はA級八段になったことはなりました。

しかしA級に昇ったのは事実ですが、そこでは1勝も出来ずに1期で陥落し、その次の期のB級1組でも降級の憂き目に遭っています。

A級に入って、順位戦の成績はどうだったかと言えば、仲間の期待通り(?)の全敗だった。
さらにB級1組(当時は昇降級リーグ1組)でも、芹澤に勝っただけの1勝で、B級2組に落ちた。
(略)
B級2組から連続昇級でA級に昇り、2年で元のクラスに逆戻りなんていう例は、それこそ空前絶後の記録であろう。

一期でもA級に昇ったのは確かに賞賛されるべき記録ですが、それ以外に目立った実績はなく、B級2組を主戦場にした、並の棋歴を歩んだ棋士人生でした。

棋士仲間でも見抜けなかった才能

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(画像:王座戦中継ブログより)

このように並の棋歴にも関わらず、河口俊彦八段著・「盤上の人生 盤外の勝負」では、名だたる棋士と同様に一章を立てて紹介されています。

義徳九段は43歳まで、1期だけB級1組に在籍したことがあるだけの凡庸な棋士でしたが、44歳の時、何故かいきなりB級1組への2度目の昇級を果たします。

さて、ここで当時のB級1組の実態についての、前提知識が必要です。

関連記事:【昭和時代のB級1組「鬼の棲家」

義徳九段は、「盛りを過ぎた侍」たちに「カモ」だとみなされたわけです。

上述の記事でも引用した通り、棋士が仲間の才能を見る目が確かで、カモだとみなされれば最後・・・だったはずなのですが。

後者の2人(注・鈴木輝彦七段・浦野真彦八段のこと)の、いかにB級1組が厳しいか、の話は何回か聞かされたものだ。
それによると、みんなで示し合わせたように星を作り、最後にぴったり落とされたそうである。
この仕組みを突破して、叩かれて落ちるどころかA級に昇ったのは、順位戦60年の歴史で、木村義徳ひとりしか知らない。

これが、老師がわざわざ一章を立ててまで評価した最大の理由。

「ただA級に昇ったからすごい」のではなく、下り坂に入る年齢のときに、棋士仲間にも見抜けない才能を発揮したのです。

昭和55年春、木村がA級昇級を決めたとき、身近で見ていた私たちが、それをどう思い、感じたかは、うまく言い表せない。
大番狂わせが起こったというより、不可解なことが起きた、という気がした。
仲間の才能を見る眼が狂っていたと思い知らされたわけで、それは相当なショックだった。
(略)
しかし今になって考えると、B級1組の面々の冷ややかな視線を浴びながら1年間戦い、勝ったのだから立派なものである。
やっぱりこのころはオーラを発していたのだ。

偉大な実績を残した父親のような棋士人生ではありませんでしたが、こういう脚光の浴び方をする棋士もいるのです。

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