大山康晴・升田幸三 村山聖

非公式戦でも決して手を抜かなかった村山聖五段(当時)

4e9a04aa

「平成時代に入って最初の将棋」というものがあります。

当時65歳の大山康晴十五世名人と、19歳の村山聖五段による非公式戦(たぶん将棋雑誌のお好み対局)です。

昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇が皇居・吹上御所で崩御された。
この対局が行われたのはその翌日、つまり平成最初の日に、この大山-村山戦が行われたことになる。
1月8日は日曜日なので、この日の対局は他にはなかったものと思われ、非公式戦とはいえ、平成のプロ棋士同士の対局の第1局目が、大山-村山戦であったと言って良いだろう。

(以下の引用は全て「平成元年1月8日、大山康晴十五世名人-村山聖五段戦」より)

大山康晴十五世名人は1992年(平成4年)7月26日に、村山聖九段は1998年(平成10年)8月8日に亡くなりました。

公式戦ではないとはいえ、平成時代になって最初の将棋の対局者が、平成時代になってたった数年でこの世を去った棋士同士の一戦とは、なんとも皮肉な運命。

認められていた才能

wp-1478871994662.jpg

そんな村山君を見ようと、東京の連盟では10数人が対局室に立ち現れた。
羽生君が大阪へ来てもこうは騒がれず、個性の豊かさでは村山君の方が一枚も二枚も上だ。
そして二上九段と西村八段をしっかり負かして帰ってきた。

ただユニークだというだけならこうは有名にならない。村山君が騒がれたのは、東の羽生と並ぶ西の逸材と言われる才能を認められていたからだ。

早見えの、からい将棋。とくに終盤は抜群との定評があり、対局中の将棋の終盤がむずかしいと「村山君に聞け」とよく言われた。また奨励会時代からそう言われていた。あの難関のC2組を、一期で抜けたのも実力の証明である。

公式戦ではない上に、年始の正月気分が抜けない時期ながら、新進気鋭の村山聖五段の将棋を一目見ようと、棋士が集まるのは、才能を認められている証拠。

その相手が、老いてなおA級に在籍する大山康晴十五世名人とあれば、なおさら興味が湧くというもの。

結果は、村山五段が快心の一手を指して勝ちました。

快心譜の代償

持てる力の全てを出し切って戦い、大名人を下した村山五段。

しかしその代償は大きく、この2日後に控えていた対局を不戦敗にしてしまいます。

村山の会心局、一手の悪手もなかった。

あの早指しの村山が全部時間を使い、一心不乱に読み、正座を通して戦ったからこその勝利だった。

しかしこの将棋の疲れで村山は寝込んでしまい、次の対局を不戦敗になった。

病魔に冒された体ながら、非公式戦でも決して手を抜かずに戦い抜いた村山五段。

後年、先崎学六段(当時)が「無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない」とおっしゃいましたが、その理由が痛いほど伝わってきます。

-大山康晴・升田幸三, 村山聖