藤井猛

藤井猛九段の「本当に将棋を指す相手がいなかった」修業時代

2016/11/15

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将棋世界2014年9~11月号に短期連載された「ぼくはこうして強くなった 藤井猛九段の巻」という企画がありました。

3ヶ月に渡って連載された藤井九段の半生は、全国の藤井ファン必見の名文です。

これまでも藤井猛九段についての情報は断片的に伝わっていましたが、それらをひとまとめにして書かれた文章は、これが初めてかもしれません(・・・いや、さすがにそれはないか?)。

まずは、将棋世界2014年9月号に掲載された前編、時系列で言うと「将棋との出合い~奨励会試験」まで。

将棋を指す相手がいなかった修業時代

前編を読んで、まず何を一番驚くか。

それは、連載の冒頭の通り、本当にびっくりするくらい将棋を指す機会がなかったことです。

私がプロになるまでの過程は相当珍しいと思う。
私ほど将棋を指さずにプロになった棋士はいないはず。
特に、ネット将棋が当たり前になったこれからはもう自分のような棋士は出ないでしょう。

しかも、将棋と出合ったのは小学4年生のときです。

大抵の棋士は、小学校低学年くらいで将棋に出合い、猛スピードで棋力が上がり、小学校高学年くらいまでには全国の将棋大会で好成績を収め、その後奨励会に入るのがだいたいの流れ。

将来のプロ棋士候補の少年たちが、その辺の大人では相手にならなくなっている頃に、当時の藤井少年はようやく将棋に出合ったわけです。

しかも、その出合い方がとても運命的。

将棋との出合いは4年生の時。
仲のよかった友達にルールを教わった。
その子は僕に将棋を教えてすぐに転校していった。
いま思えば、不思議な縁だったなあ。

それから将棋にのめり込んでいくわけですが、冒頭の通り勉強方法は専ら本とテレビで、実戦機会は無し。

プロ棋士になるうえで致命的ともいえる環境の中で、6年生になった藤井少年に、またある出会いがあります。

家の近所に住んでいたおじさん(アマ初段)が将棋好きで、その人が唯一の対局相手になってくれました。

このおじさんと最初は2枚落ち、半年くらいで平手で指せるほどに上達します。

棋士を志したきっかけ

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中学に入るとそのおじさんとも指す機会が無くなり、本当に将棋を指すことはなく、将棋のテレビ番組と本で勉強する日々。

そんな、本当に棋士になれるのか心配になってくる日々を送る藤井少年に、棋士を志すきっかけが訪れます。

当時読んでいた「近代将棋」で、若手棋士として活躍していた塚田泰明五段(当時)の自由な生活を知り、「最高にイケている」職業だと思ったことが棋士を憧れたきっかけだそうです。

当時の塚田さんは東京・青山を卒業したばかり。
強くてかっこよくて、田舎の中学生から見たら、最高にイケいるのですよ。
忙しそうじゃないし、出勤もない。
朝も自由で、こんなことして生きていける職業があるのかと思った。将棋指しってすげえなあと思った。
それからは棋士が夢の職業になった。

・・・まぁ、中学生の考えることは、今も昔もこんなもんです。

そして中学2年の秋、将棋普及のボランティアをしている方と出会い、その人からさらに強い人に紹介され、研修会に入ることになります。

すでに知識だけでアマ三・四段の実力があった藤井少年。

初めて対局したとき、何故こんなところにこれだけ指せる子がいるのかとびっくりされたそうです。

初めての挫折

こうして、ルールを教えてくれた人、初段まで引きあげてくれた人、プロへのルートを拓いてくれた人、という必要最低限ギリギリの出会いを見事に活かし、棋士への第一歩を踏み出した藤井少年。

しかし、棋士への道を歩み始めた藤井少年をまず待っていたのは、初めての挫折でした。

研修会でいざ指してみれば、実戦経験の違いがモロに出て、半年間負け続けます。

それでもようやくなんとか勝てるようなった中学3年の頃、その年の11月に受けた奨励会試験では、1次試験の段階で不合格。

それも、1日目1勝2敗から2日目に2連勝して、次勝てば2次試験に進める、という将棋に負けて不合格でした。

そりゃあショックでした。1週間くらい寝込みました。
奨励会を目指して東京まで通ったのに、その入り口で追い帰されたのはショックだった。
これで俺の将棋人生は終わりかと思うと、その絶望感たらなかった。

この、奨励会試験で落ちたときの経験は本当にショックだったようで、そのときの悲痛な思いが綴られて前編が終わっています。

中編へと続く中飛車が主力戦法だった奨励会時代の藤井猛九段

-藤井猛