藤井猛

中飛車が主力戦法だった奨励会時代の藤井猛九段

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●前編:藤井猛九段の「本当に将棋を指す相手がいなかった」修業時代

将棋世界2014年10月号に掲載された、ぼくはこうして強くなった 藤井猛九段の巻(中編)。

前編では「将棋との出合い~奨励会試験で落ちるまで」でしたが、この中編は「奨励会合格~四段昇段」まで。

この号では、ついに弟弟子・三浦弘之九段の登場と、ある意外な人物が藤井将棋に影響を与えていることが発覚しました。

挫折を乗り越えて

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「このときほどのショックはそれからの人生でもない」ほどのショックを受けた奨励会不合格のあと、藤井青年は猛烈に勝ち始めます。

昭和60年、中学3年11月の奨励会入会試験に落ちました。
期待していたし、それは衝撃だった。
ただ、そのショックが自分の中の何かを変えたのかもしれない。

挫折と覚悟は恐るべし、悲劇からたった1年で奨励会3級まで駆け上がります(研修会で所定の成績をとれば、奨励会に編入できる制度がある)。

奨励会時代の勉強方法ですが、当時は終盤の研究に力を入れていたようです。

奨励会に入って、勉強法も変わりました。
奨励会の対局は月に2回で、1日3局。その3局を徹底的に研究した。
答えの出にくい序中盤より答えの出やすい終盤を特に研究した。

升田幸三賞2度の受賞を誇る、序盤巧者の藤井九段。

修行時代から序盤研究に力を入れていたイメージがありましたが、 むしろそうなるのはプロになってからです。

弟弟子・三浦弘行との出会い

ここまで順調だった16歳の夏。

現在の藤井猛九段の伝家の宝刀といえば四間飛車ですが、奨励会級位時代の主力戦法はツノ銀中飛車でした(藤井少年と中飛車の出合いは前編で詳しく載っています)。

しかし、奨励会1級まで上がったところで居飛車穴熊の壁にぶち当たり、なかなか昇段できなくなってしまいます。

そんなとき、藤井少年に転機となる出会いが訪れます。

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(画像:竜王戦中継ブログより引用)

同じ西村門下の弟弟子、当時中学2年の三浦弘之5級(現九段)です。

当初、藤井1級は三浦5級の将棋を否定的にみていましたが、あれよあれよのうちに同じ1級に追いつかれてしまいます。

三浦君と初めて練習将棋を指したとき、僕は高2の1級。
彼は中2の5級。
僕から見たら子どもですよ。
それなのになぜか、すでに三浦5級のほうが強かった。
当時、僕は駒得して受けに回り、駒の損得で優劣を判断する理屈っぽい将棋だった。対して三浦君は実戦派で、玉を固めて攻める将棋だった。やってみると勝てない。若いし、キレはあるし。

学生時代の3歳差は、相当大きく感じていたはずです。

自分は停滞しているまま、子ども同然の後輩に追いつかれたのですから、精神的にもコタえたことでしょう。

しかし、こういうときに腐らないのが藤井1級の強いところなのです。

いくら自分が停滞しているといっても、3つも年下の後輩に抜かれるのは嫌だった。
こんな生意気な後輩に抜かれてなるものか。
そこで自分の将棋のスタイルを変えたんです。
勝つためのスタイルを求めるようになった。

そして藤井1級は長年愛用してきたツノ銀中飛車と別れを告げ、居飛車穴熊に堅さ負けしないよう中飛車穴熊を新たなエースに据えました。

これまで愛用してきた戦法を捨てるのは勇気の要ることだったはずですが、この棋風改造が功を奏します。

1級で勝てなくなったとき、居飛車穴熊にどうするか。
それが最大の悩みだったが、美濃で戦う自信はない。
振り飛車をやめて居飛車をやるには時間がかかる。
それで相穴熊で勝負する決意を固めた。
それからひたすら相穴を磨いた。
苦労はしたが、三浦君より先に初段になれて嬉しかった。

三浦将棋の影響を受け、勝ちやすさを求める棋風に変え、昭和63年。

弟弟子に先んじて、ついに壁を破ります。

藤井システムの萌芽

高校を卒業し、順調に昇段を重ね、19歳の11月に三段に昇段した藤井青年。

初参加した第7回三段リーグの初戦で、後にあの「革命的戦法」に影響を与えることになる奨励会員と当たります。

その名は、杉本昌隆三段(現七段)。

故・村山聖九段が「全振り飛車党の中で唯一の本格正統派」と認めた棋士・杉本昌隆七段

この期のリーグでは杉本三段が四段昇段を果たし、藤井三段は12勝6敗で昇段はならなかったのですが、ラス前17回戦のある将棋が、後の「藤井システム」につながります。

対局者は、4敗の杉本三段と、5敗の近藤正和三段(現六段・ゴキゲン中飛車の創始者)で、その序盤の駒組みが下の画像。

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この▲3六歩は、居飛車穴熊に対する牽制に違いない。

その将棋は以下△5五角▲4七銀△7四歩となり、普通の穴熊ではなくなったので、その構想は見られなかったが、自分なりに△3三角ならどうなっていたのかと考えた。

実際には、藤井九段が「藤井システム」を創りあげ、将棋に革命を起こすのはまだ先のこと。

この当時は「頭の片隅に残った」だけですが、居飛車穴熊対策は1級の頃から悩まされていただけに、どこかにひっかるものがあったのでしょう。

藤井三段は2期目の三段リーグで15勝3敗の好成績をおさめ、念願のプロ入りを果たします。

人生初の挫折から5年、20歳での四段昇段でした。

-藤井猛