順位戦史上ただ一度だけ、名人戦が行われなかった年がある
2017/07/01
日本将棋連盟の名人戦の過去の結果を見ると、不思議なことが分かります。
1976年の名人戦が第35期なのに、第36期名人戦が行われたのは1978年とあるのです。
つまり1977年には、順位戦史上ただ一度だけ、名人戦は行われていないのです。
なぜそのような事態になったのか。
その理由は、当時の名人戦の契約金に鍵がありました。
低く抑えられてきた名人戦の契約金
1970年代の名人戦は朝日新聞社が主催しており、その契約金が長らく低く抑えられていました。
正確には、1960年代半ばの契約金のまま変わらなかったのです。
朝日新聞社が名人戦を主催していた昭和40年代後半の頃。将棋連盟の総会が名人戦契約金増額の件で紛糾したことがあった。
それは契約金が長年にわたって上がらなかった事情による。昭和49年の名人戦契約金は約3300万円だった。
毎日新聞社が主催する名人戦の契約金は、平成17年で約3億3000万円。約30年前と比べて10倍の差額がある。
物価水準が違うので単純に比較できないが、当時の将棋界最高の棋戦としては決して高額ではなかったと思う。
(引用:将棋界の事件簿 現役プロ棋士の実話レポート
P.36より)
*は2005年に出版された書籍であり、当時の名人戦の主催は毎日新聞社でした(現在は朝日・毎日共催)。
棋戦の契約金が低いということは、日本将棋連盟の収入も少ないということ。
なので当然、その当時の棋士の収入は低く、1974年に棋士になった青野照市九段の著書からもそれが分かる記述があります。
私が四段に昇段して棋士となったのは、昭和49年(1974年)。
当時の将棋界は高度成長時代の波に乗れず、昭和30年代半ばからの15年間ほど、ほとんど各棋戦の契約金が上がらなかったため、将棋界の最も苦しい時代の最後でもあった。
(引用:将棋界の不思議な仕組み プロ棋士という仕事
P.17より)
その苦しい時代が終わるきっかけは、お隣の囲碁界の動きから始まります。
昭和49年の暮れ、囲碁界を運営する団体である日本棋院が、囲碁名人戦を主催していた読売新聞社との契約を打ち切り、朝日新聞社と名人戦の契約を結んだのです。
そこで将棋連盟は「囲碁と将棋は文化的に同格」という理屈を盾に、朝日と交渉。
囲碁界の契約金値上げに乗っかる形で、前年の3倍以上の契約金(1億1000万円)を獲得することに成功したのです。
朝日と決裂
これでめでたしめでたしと思いきや、囲碁界でまた新たな動きがあります。
囲碁界が読売新聞社と棋聖戦の創設し、しかもその契約金が1億6000万円だというのです。
日本棋院と読売は、名人戦の件で一時は裁判沙汰にすらなっていましたが、後に和解し、囲碁界最高棋戦を新たに立ち上げたのです。
そこで将棋連盟は朝日に対し、3億円(内訳:名人戦及びA級→2億円、その他の順位戦→1億円)の契約金を要求します。
その金額の根拠は、上述の「囲碁と将棋は文化的に同格(1億6000万円)」に加えて、「将棋名人戦の長い伝統(4000万円)」と「厳しい順位戦システム」という理屈。
前年に1億1000万円に上げた契約金を、その翌年には3億円にするのはさすがに無理があり、連盟は朝日と順次要求金額を下げて交渉を続けたものの、昭和51年7月に決裂します。
毎日が名人戦の主催へ
とうとう名人戦の主催社がいなくなってしまった将棋界。
そこで当時、連盟でも強い影響力を持っていた大山康晴十五世名人は、毎日新聞社に名人戦を引き受けてくれるよう交渉を持ちかけます。
昭和51年9月、連盟と毎日とで名人戦の契約が結ばれ、その契約金は第36期が2億円でした。
契約金がまたしても大幅に上がったことで、棋士の収入も大いに上がったそうです。
新しい将棋会館が完成した頃、囲碁界で名人戦騒動が起こり、主催が読売新聞から朝日新聞に移った。
するとそれが将棋界に波及し、大いにもめた挙句、名人戦が朝日新聞から毎日新聞に移り、契約金も大幅に上がって、棋士の懐も大いにうるおった。
(引用:盤上の人生 盤外の勝負
P.138~139より)
大山十五世名人はかねてから毎日新聞の嘱託を務めており、その人脈が役立ったのです。
また、毎日新聞社は当時経営難に見舞われていて、その再建のセールスポイントにしたいという都合もありました。
ただし、前述の毎日の経営難の都合により、順位戦の再開は昭和52年春からとなりました。
そのため昭和51年度の順位戦は休止になり、それに伴って昭和52年に行われるはずだった名人戦も行われなかったのです。